こんにちは!
管理人のしのっちです。
今日、子どもを小学校に送ったときに(毎日送っています)、女子児童と先生の言い合いが耳に入ってきました。
その会話を聞いて、ちょっと切なくなったので、記事タイトルのテーマで書いていこうかと。
私がやりたくないことを、どうしてやらないといけないの?
女子児童が先生にこう問いかけていました。
これって人間の根源的な問いかけです。
すごくシンプルなんですけど、奥が深い問いかけなんですね。
この問いかけに対して、先生がどう答えたのかも含めて、ご紹介します。
やりたくないことをやらないといけない理由(先生のズレた答え)
問いかけをしていた生徒は、小学校低学年の女の子なんですけど、教師にも物怖じせずにハキハキと喋っていました。
A子ちゃんとしますね。
事の経緯は、
- 運動会が近いので、クラス全体で練習をしている
- その練習にA子ちゃんは「今日は参加したくない」と先生に訴えてる
こんな感じでした。
まあ、よくありそうな風景ですが、先生に対してはっきり抗議する子ってちょっと珍しいですよね。
その女の子の問いかけが、すごく耳に残ったんです。
「今日は、どうしても練習をしたくないの。」
「私がやりたくないことを、どうしてやらないといけないの?」
はっきりと自分の意見を言っていました。
この問いかけに対して、先生は
「みんなが運動会に向けて頑張って練習してるの!」
「あなただけちゃんとできてなかったら、お母さんたちに恥ずかしい姿を見せることになるんだよ!」
「小学校に入ったら、みんながやらなきゃいけないことだから」
「みんなやってるでしょ?」
このように答えていました。
先生の答えに納得できないA子ちゃんは、
「でも、〇〇くんも、参加してなかったじゃない。」
それに対して先生は、
「〇〇くんは、別の時間で練習していました。今は他の人の話をしてるんじゃないの!あなたの話をしてるの!」
↑この先生の答え、ちょっとズレてるのは分かりますかね?
先生は「みんなが練習している」「みんなやらないといけないこと」ってみんなを基準にしてA子ちゃんに練習するよう指導してます。
でもそれに対してA子ちゃんは、
みんながしてても、私はしたくない
って、自分の話をしてるんですね。
でもそれに対して先生が「みんな、みんな」とみんなを基準にした話をするから、A子ちゃんは「〇〇くんだって…」と、〇〇くんの話を出したんです。
そうしたら今度は「他の人の事はいいんです!あなたがどうするかの話なの!」とA子ちゃんに話を戻そうとしている。
これでは、A子ちゃんは混乱します。
みんな(他人)を基準にして話せばいいのか、自分(A子ちゃん)を基準にして話せばいいのか。
まあ…A子ちゃんにとっては、納得できない話ですよね。
「みんな」を基準に考えると思い込みが作られる
先生は立場が上なので、納得できないA子ちゃんを「みんな論」でねじ伏せることができます。
でもこの先生がひどいとかではなく、もう日本の教育自体がこうなってるんですね。
小学校のシステム自体が。
一通りのカリキュラムや勉強を、複数の子供達に教えるためには、先生側も子どもたちをまとめないといけません。
「私はこうだ!」「僕はこう思う!」
このような意見をいちいち聞いてたら、カリキュラムをとてもこなせません。
学校の先生たちは本当に大変だと思います。
お便りの数も、行事も、私はもっと減らしてもいいと思う…(-_-;)
先生もいっぱいいっぱいだから、「私は嫌!」という生徒には、「みんな論」で教えるしか無い。
- 小学校はみんなが通うものだから
- みんなやってることだから
- 義務だから
↑これが常識ですよね。
「常識で当たり前なんだから、従いなさい!」
「世の中に出たら、あなたが苦労するのよ!」
こんな意見の大人が大半だと思います。
もうもう、仰る通りです。
社会の常識がそういうもので、みんながそれに従ってる。
自分の意見を通そうとすると、社会で生きていけない。
だからみんなに合わせて、常識に従ったほうがいい。
※ここで説明している常識は、倫理とは異なります。
このように、「自分がしたいのか、したくないのか」で選ぶのではなく、「みんながしてるから」という基準をもとに行動すると、だんだんと
「〇〇したくないけど、みんながしてるから〇〇しなきゃ。」
「〇〇するべき!」
という強い思い込みが出来上がるんですね。
先生にもこの思い込みがあります。
だから「みんなを基準にした答え」になったんです。
でもA子ちゃんがほしがってたのは、
「自分が嫌だという感覚を、なんで大切にしちゃダメなの?」
という問いかけへの答えなんです。
このように小学校低学年のうちは、まだ思い込みが出来上がってないので、常識やルールに対して
なんで従わないといけないの?
という疑問が生まれてきます。
なんでやらないといけないの?は、魂からの問いかけ
A子ちゃんは
・私がやりたくないことを、どうしてしないといけないのか?
正直も当たり前も超えた、魂から湧き出る問いかけをしてます。
その問いに答えるには、常識でもルールでもありません。
「みんながしてるから!」
「そうしないと生きていけないから!」
それでは、魂への答えにならないんですね。
「やりたくない」って気持ちが出てくるのは、自分が「不快」という感覚があるって気づいてるんです。
不快は人間が持つ根源的な感覚。
その人の魂が持つ、独自の感覚なんです。
だから「快」「不快」ってすごく大事なんですが、大人になるほど鈍感になっていきます。
- ひどいことする友人と縁が切れない
- 健康を害するような職場で働き続ける
- もう休みをずっととっていない
↑一例ですが、「不快」という感覚が鈍ると、このような状況でも耐えてしまうんです。
「もう嫌だ!やめたい!」と思ってても、
「いや、やめたいなんて、何を甘えてるの?それじゃあ社会では生きてけないよ?」
「自分だけやめたいって、ワガママじゃないの?」
そんな常識や思い込みから出る思考が、「不快」を打ち消します。
魂からのサインを、見逃してしまうんですね。
その結果、自分は一体何をしたいのか、自分が何を好きなのか、そんなこともわからなくなります。
やりたくないことをやり続けた子どもの末路
私も「やりたくないことをずっとやり続けた子ども」でした。
やりたくないことがはっきりしていて、「嫌だ!」と親に主張する方でしたが、怒られて強制的にやらされました。
そんな状況が続く場合、
「快」「不快」という感覚を麻痺させないと、生きていけなくなります。
いちいち物事に「快」「不快」を感じてたら、動けないわけです。
感覚停止ですね。
そうなると段々と
- 本当は嫌なことも無理矢理にやる
- 本当は嫌な人とでも「いい人だから」と付き合いをやめられない
- 本当は嫌な仕事も無理やり続ける
「嫌だな」と感じる自分を否定して、無理にやり続けるんですね。
そして段々と、「好きなこと」「やりたいこと」を忘れていきます。
自分の「快」「不快」を否定すると、根源的な感覚を否定することになるので
なんで生きてるんだろう?
って自分の存在意義さえ、わからなくなるんです。

私は幸いにもその状態から抜け出せましたが、それまではやっぱり辛かったですね。
だから「私は嫌なの!」と主張していたA子ちゃんを、尊いと感じたんです。
やりたくないことを全くやらなくていいというのとも話が違う
このようなことを書くと、
じゃあやりたくないことを全くやらなくていいってこと?
って思う人もいます。
でも話はそう単純でもないんですね。
もちろんエジソンのように、自分がやりたいことだけやり続けた結果、発明家になる人もいます。
好きなことは誰でも集中できて能力が飛躍的にアップします。
ただ、人って快楽にも弱いので、怠惰にも逃げやすくなるんですね。
人にはコンフォートゾーンというものがあって、
- 自分にとって未知な領域ほど、挑戦することに恐怖を抱く
- 自分にとって馴染みある領域ほど、安心感を覚える
こんな特徴があります。
要は安心なコンフォートゾーンから、本能的に出たがらないんです。
実は「やりたくない」って感覚は、
- 本当にやりたくないから
- 挑戦することへの恐怖があるから
このどちらかからも生まれるんです。
本当にやりたくないことなら、その時はなるべくやらないほうがいいです。
でもただ単に、「挑戦することの恐怖」なら、少しずつでも挑戦したほうが自分の成長に繋がります。
「やりたくない」ことの中にも、自分の能力が隠されてる場合があるんですね。
私もはじめは、ブログの記事を書くのが正直苦痛でしたw
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しょっぱなで「ヤダ!」と放り出してたら、ここまでできませんでした。
自分が「恐怖を感じて怠惰になってるだけ」なのか、
それとも「本当にやりたくない」のか、
しっかり見極める必要があるんですね。
そのためには、一度止めてみるのも一つの方法です。
あとは、やり続けてみるのも、一つの方法です。
「みんながやってるから、やる」以外にも、
いろんな方法があるってことですね。
だから冒頭のA子ちゃんも、
今日だけは練習を休ませて様子を見る
って方法があります。
そのときに、
- 社会には「常識やルール」があり、基本的にそれを元にみんな行動している
- だから常識からルールから外れると、みんなから外れるリスクが高くなる
- ただ、A子ちゃんの「やりたくない」って気持ちは、とても大切なもの
- その気持ちは否定しないでいい
- 実は「やりたくないこと」でも、やってみたら楽しくなる可能性もある
- 挑戦することも大切
こんなことを説明してあげたらいいのかな…って思ってます。
ただ、小学校の先生は本当に忙しいので、「ルールだから!」と説明する気持ちも分かります。
A子ちゃんには、
「できない自分が恥ずかしい」「自分はワガママなんだ」
そんなふうには思ってほしくないですけどね…。
やりたいことだけをずっとやってみてもいい
子どもにしろ、大人にしろ、
やりたいだけことをずっとやってみてもいい
んですね、実は。
要はやりたいことだけずっとやってみた結果を、自分で受け止められたらそれでいいんです。
誰かのせいにするんじゃなくて、自分で結果を受け止めるんです。
引きこもりやニートって社会的には批判的に見られますが、物事に良い悪いってないので、本人が幸せならそれでいい。
もしニートな自分に誇りが持てなかったら、
「ニートは違うな」って気づいて、働き出せばいい。
ずっとやりたいことだけやり続けた結果、創造的な取り組みができるかもしれない。
反対に、怠惰にずっと逃げ続けるかもしれない。
どちらになるかわからないんですね。
ただ子供の場合は、親や保護者が子どもの責任を取るため、親が見守れる範囲でいいと思います。
大人になって「やりたくないけどやらなきゃいけない」ことがあるとき
大人になると、生活する必要があるため、
「やりたくないけどやらなきゃいけない」
ってことが増えますよね。
そんなときどうしたらいいのか…ですが、
「やりたくない気持ちを大切にしてあげる」
ってことです。
「そっか~自分はやりたくない!って思ってるんだよね。」
自分の気持に自分で共感するだけで、心は落ち着きます。
「不快」の感覚を否定せずに済むので、自己肯定感も高まるんです。
子供の頃に「やだやだ!」と駄々をこねて、「こら!!」と親に怒られて…。
段々と「ヤダ!」と言えなくなった自分の心。
それをもう、抑え込む必要はないんですね。
そしてもう一つ、自分の「やりたいな」って思ったことは、なるべくやってあげるってこと。
本当に小さいことでいいんです。
「缶コーヒーよりも、コンビニカフェのラテが飲みたいな。」
「付き合いの飲み会を断って、一人で映画に行きたいな。」
そんな「お金が勿体無い!」「付き合いのほうが大事!」と、常識などで否定しがちな「小さいやりたいこと」。
それを叶えてあげるんです。
毎日の積み重ねで、段々と「快」「不快」の感覚が戻ってくるんですね。
その結果、自分が本当にしたい仕事を見つけられたり、嫌だと思っていたことが実は好きだったり、新しいことに挑戦できたり…
そんな新たな自分を、発見できるようになります。
「やりたくないことを、どうしてやらなきゃいけないの」
社会に馴染みにくいこの問いかけ。
でも本当は、自分だけが持つ「魂からの感覚」がギュッと詰まった、素晴らしい問いかけなんです。
